ビーイングを前面肯定したい。-ビーイングが目指した音楽とは-【考察】

ビーイング




皆さんは、「ビーイング」という社名の由来についてご存知だろうか?

英語にすると『存在』などを意味する言葉であるビーイング(being)であるが、(仮に副次的にそのような意味を内包しているのかもしれないものの)実際に伝えられるところの由来は、プロデューサーの長戸大幸氏が、「B級でもいいから売れる音楽を創りたい」という意を込めたというものである。

この一点だけを切り取っても、ビーイングの本質中の本質が見えてくる。

ビーイングが目指した音楽とは、売れる音楽である。

決して一表現者の自己満足に終始する音楽ではなく、市場で認められ、売れる音楽。

それは売れることに徹底的に拘る姿勢によって具現化されることは言うまでもない。

そしてそれを、長戸大幸氏、ひいてはビーイングが着実に実行してきた。

その結果が90年代のビーイングブーム創出であり、その後継承されたGIZA studioでの実績である。

それでは、ビーイングは売れることに拘るにあたって、どんな手法を実践してきたのか。ここで振り返ってみよう。




ビーイングの一貫した手法

ビーイングという会社は、一言で表すなら「音楽制作集団」である。

彼らの音楽の作り方は、概略すると以下の通りだ。

プロデューサー主導で、アーティストとして優秀な人材をスカウトして育成し、バンドやユニットを組ませる。またアーティスト自らが作曲や編曲を賄わない場合は、ビーイングが誇るハイレベルな制作陣が各アーティストに均質的に制作物を提供する。そしてタイアップなどの事務所が編み出した戦略を基に、大量に楽曲を生産し、市場に提供する。

これらの特徴を改めてピックアップしてみると、一種の工場型の体制、労働集約的な管理体制のような匂いを強く感じるが、この手法はかつてアメリカの「モータウン・レコード」が採ったものに近い。
モータウンもまた、かつての成功例と称されるところである。

とはいえ、ここまで徹底した管理体制の元で音楽制作を行ってきたのはかなりの特徴であるが、

ではいったい何故、ビーイングはこのような手法を採用したのだろうか?次にその理由を探ってみたい。

ビーイングの徹底した管理体制における意図

さて、ビーイングが採った手法について考えるにあたって、突然ではあるが、皆さんに一つ考えてほしいことがある。あなたが思い描く『カリスマ』とはどんな人物だろうか?

特に、音楽アーティストにおけるカリスマを想像してほしい。

”誰にも書けない曲を作るミュージシャン”だろうか?

”天性の声を持つヴォーカリスト”だろうか?

または”大衆の心を鷲掴みにする歌詞を書くシンガーソングライター”だろうか?

もちろんそれぞれ、カリスマというべく存在であろう。

しかし、では彼らが、彼ら単体で音楽制作の全工程を賄ったり、最適なバンド編成を決めたり(メンバー探しも含め)、自身の売り出し方やマーケティング手法を策定したりできると思うだろうか?

恐らくそれはできないだろう。

音楽アーティストはあくまで一アーティストであって、それ以上の存在ではない。彼らが本当に音楽市場で売れるようになるために必要なその他数多くの要素は、それぞれのスペシャリストが請け負った方が圧倒的に効果的なのだ。これこそがビーイングが徹底した管理体制を用いた理由である。

仮に世の中のすべてのミュージシャンが神の手を持っていて、自分一人で作曲作詞編曲、バンド編成、客観的な視点に基づいたイメージ戦略の策定まですべて為し得るのなら、ビーイングが用いたような手法はいらないのかもしれない。しかし実際には間違いなくそんなことはあり得ない。大衆の目を惹くカリスマバンドが偶発的に完成される確率など、天文学的に少ない。音楽を効率的に市場に流通させるためには、プロデューサーがいて、管理体制があって、制作工程で各スペシャリストの手を介在した手法の方が適しているのである。

日本で一番CDを売り上げているロックバンド「B’z」や、国民的アーティストとなった「ZARD」などを輩出しているという実績からも、これは十分証明できるであろう。

 

しかし、このビーイングが採った手法にはもちろん批判的な意見が存在する。

極端な比喩表現を用いると、「ビーイングは金儲け主義であり、金儲けのためならアーティストの主体性を損なわせることさえも厭わず音楽を売っている」という見方をされることも、少なくない。次にこのことに関する是非を考えていきたい。

音楽とビジネスという視点からのビーイングへの賛否

世間では古今東西問わずして、音楽は芸術であり、そこにビジネスの要素が混ざることを極端に嫌う、といった向きがある。一例を挙げよう。1970年代~80年代に米国やヨーロッパで流行ったTOTOやJourneyなどの音楽は、ロックサウンドを用いながら大衆迎合的な歌詞やメロディを前面に押し出していた。

これに一部の人々は「産業ロック」という、ある種かなり見下したカテゴライズを施し、喝破しようとした。

”反骨精神こそ真髄のロックを、アーティストの主体性もなく資本に擦り寄ったことにより、汚してしまった”存在として論じたのである。

実はこれと似たように、「ビーイング系」という呼称も、世間一般では否定的なコンテクストの内に語られることが多い。そのバックグラウンドには、「産業的」な音楽を前述の通り主体性もなく均質的に大量生産する集団、といった要素が組み込まれているのだ。

しかし私は音楽とビジネスという視点を踏まえて、ビーイングを前面肯定したい。

もちろん、個人個人の信条がある故、「音楽は芸術であり、そこにビジネスライクな思考や要素は一切含まないでほしい」という意見はあってもいいだろう。

しかし、ここで一度、現在の世の中の仕組みを考えてほしい。

現代の資本主義社会においては、消費者が自由な意思によって購入する商品やサービスを選択できる。

そして消費者は、一般的に自身の幸福に寄与する商品やサービスを選択することが当然と言えるだろう。

音楽が市場で売れる、ということは、消費者(リスナー)がその音楽によって幸福になっているということの裏返しになるのだ。

つまりビーイングが、これまで音楽市場で大きな実績を残してきたという事実は、

それだけ多くの人がビーイングが提供した商品=音楽に恵みを享受したという事実の裏返しなのである。この事実を他者に、頭ごなしに否定される筋合いはどこにもないと考えられる。

実際に、ビーイングブーム当時については、「バブル崩壊後に、ジュニア団塊世代が、カラオケなどでひたすらに歌った」ということが定性的によくクローズアップされる。実はこの現象も、さらにもう一歩踏み込んだ言葉で言い換えるならば、”当時の若者が先行き不透明な社会の中で生きていくにあたって、支えとしたものがビーイングの音楽だった”ということではなかろうか。

音楽はただ単に消費されるものではなく、その刹那刹那で人々を支え、幸福にしていることを忘れてはならない。

 

仮にアーティスト側が、ほとばしる主体性をもってしてメッセージ性の強いコンテンツで市場に挑戦したいのであれば、そのような考え方を受け入れてくれるレコード会社に所属すれば良い。また、そもそも金儲けに走りたくないのであれば、(生計を立てていけるかはわからないが)売れることを目標にしない独自の活動方法もあるだろう。

とにかくいかなる批判が存在しようとも、ビーイングが創り出した音楽で励まされたり元気をもらったりした人々が数えきれないほど存在していることは紛れもない事実だ。

売れる音楽を創るということは、人々に幸福を生み出すということなのである。

 

 

「B級でもいいから」売れる音楽をと言う描写は、長戸氏なりの照れ隠しなのかもしれない。私にとってビーイングの音楽は「A級」である。

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